昭和五十六年五月五日朝の御理解
御理解第八十一節「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登りきって向こうへ降りたらそれで安心じゃ。気を緩めると直ぐに後に戻るぞ。」
合楽理念が助かりの理念として沢山の人に支持されるおかげを頂く事の為に、沢山の人が真の助かりの事になってくる事の為に合楽に御縁を頂いた人達が真実合楽理念に基づく助かりを見せていかなければなりません。
簡単です、明瞭です、おかげが確かです。と例えば吹聴致しましても、その成る程合楽理念とは、云うなら天地日月の心になるという事がまあシンだなあと分かったり、なら天の心、地の心はと合点が出来たり、そんなら取り敢えず兎に角地の心、土の心でいく事だなあ。しかもそれを言葉に言うならば黙って治めるという信心を身に付ける事なんだ。成る程簡単だなあという所まで分かってもおかげにはならんのです。
確かに山登りと同じです。一歩一歩やはり頂上を目指してそれを極めて行こうとする精進。だからその気になったら簡単です、明瞭ですであってね、おかげが確かという事になってただそこまで知っておるというだけでは、云うならばなら土の信心なら土の信心と言われるのが、土の信心になったり、でなかったりとそれがシダゴダであれば、やはりおかげもシダゴダです。もう徹する事です、教えを。
私は信心とは、いわゆる教祖の御教えを身につけるという事は、徹してそのみ教えが自分の血に肉になるという事だと思うんです。ちょっと塩梅見にやってみたといったようなものでは、血に肉になると思われない。ただ一心発起こそが大事なのです。
天地日月の心を説かれる。そのどこでもよい。昨日は日向教会の滝口先生みえとりましたが、あちらに合楽的一つの御比礼が段々こう感じられるようになったのは、或る時のここの御大祭にあちらの奥さんが御信者と御一緒にお参りになっておった。その時の御理解のシンというのが、修行の第一はくの一だという御理解を頂かれたのです。くの一、くは苦しいくですね。だから合楽では苦しいとか苦労とか言わん、そのまま修行だと頂く。まあ修行の第一。もうさまざまな修行があるけれども修行の第一はいわゆる変幻自在、自分の心を自由自在に有り難い有り難いという、どういう苦しい事があってもそれに対する所の信心修行がね、おかげで信心が出来ますといったようにその苦労が生きてくる頂き方なんです。
様々な問題がその問題のおかげで信心が出来ますというような頂き方です。それが云うなら、くの一的修行だと思います。
もう私の方のこれを信条に致します。丁度そういう思いで帰られた直ぐ後にお夢を頂かれた。川を泳いで行かなきゃならない。ところがその川を泳ぎ渡って行こうとする道中にそれこそ何ともつかないまあ化け物ともまあ怪物のような物がそこここに居って、兎に角怖い思いでそのそこを泳いで行かれて向こう岸に着かれた。そこが合楽世界であったというのです。例えばそんならあのよくよく成る程恐いとか怪物のような者が居るという事は、いわば最近頂いて居るシルクロードの道だ。三蔵法師が行く道には様々な恐い事やら危険な事やらがあったんだけれども、それをその目的の地まで行った所が、いわゆる私共の願いの地であったという。その道すがらをです、恐いものではないそれこそ“幽霊の正体見たり枯れ尾花”であるというふうに説くのです。合楽では、決してこの世には恐いというものはない。あるのは神愛だけだ。恐いかに見えておるだけの事なんだ。恐いとい思うても度胸を据えそこを通ったら何でもない事なんだと。そして会楽世界に到達したというお知らせを頂かれて、まあこちらではこの事だけに取り組んでおられるという感じなんです。奥さんがお参りしてみえるとその事を言われるんです。だから一切を有り難い有り難いで受けていくという。だからそこに本当に一心発起しなければやはり泳ぎ渡って行けんのです。向こうへ渡った所が合楽世界です。それをなら途中で引き返したらどういう事になるか。今日の御理解じゃないけれども、十里の道でも九里半登っとってもそこから引っくり返したら合楽の世界には着く事は出来ない。徹して向こうへ行ったら安心じゃ。合楽世界に住んで初めて安心だという事にまあなるのではないでしょうか。
昨日滝口先生が一番上に座って居られましたから、発表が一番初めでした。正教先生が司会しとりましたが、まあいろいろ発表して行かれる中で、朝起きの難しい事を話して居られた。あちらは五時の御祈念だそうですが、なかなかその枕に引力があると、なかなか枕を外れる事が大変難ぎな事であって、まあ云うなら出来たり出来なかったりのような感じだという発表しとられる時に、私が頂く事がね、御神願に見事な洋服を着とるけれども、妙なそれこそ感じの悪いネクタイをはめておる所を頂くんです。御神願に、どんなに素晴らしい例えば洋服を着とってももうネクタイ一本でです、それに釣り合わなネクタイだったら洋服が死んでしまうでしょうが。
いかに合楽理念がまあもういよいよ助かりの理念であるという事を云うて立派だというてもです、そのネクタイ一つが間違って居ったら、もうその合楽理念なら合楽理念も大したことはないのであり、良い洋服であってもそりゃ値打ちはないのです。それにぴったりのネクタイがはめられて、いよいよネクタイも生きる洋服も生きるという事になるのです。そして尚それに頂く事がネクタイという事をね。寝るという字を頂く、寝る。クは苦しみの苦。タイは体。ねえ寝苦体。一つ漢字で書いてみて下さい。寝苦体。寝る、くはく苦、体何というてもね、合楽理念を実験実証していく人達がね、朝起きが出来んような人は駄目です。朝起きが有り難くなるような信心から始めて云わば合楽理念です。こりゃ昔から金光教の信心はあのう朝の御祈念からと言われますように、だから云うならば朝起きの出来ない人が朝起きの出来る、云うなら前日からの工夫と願いと、どうぞ又明日有り難い目覚ましのおかげが頂けますようにという願いと、それを眠たかろうけどもいよいよあのうその修行に本気で取り組む事なんだ。これはまあ居並ぶ先生方も家の修行生も皆まあ頭かくような状態でした。
なかなか朝の修行が出来ん。そしてそれが苦しい。いわゆる寝苦体である。合楽のいうならどんな素晴らしい洋服を着せて頂いておってもそのネクタイが釣り合わなかったら、いわゆる合楽理念も極言ですけれども、そういうふうに先生方ばかりの会ですから神様は厳しく教えて下さったわけでしょうけれども、お互いがいよいよ本当の意味においてのその合楽理念に基づく、云うならば信心が一つ貫かれる、実験される、実証される。途中に泳ぎきっている時には、そりゃ恐い思いをする所もあるかもしれん。けれどもそれを柔らかい心でそれを受け抜いていく所に信心させて頂く者の前には、いわゆる恐いとか危ないという事はない。恐いと思うておったその事は信心の度胸を作って下さろうとする神様の働きであった。危ないと感じた事はいよいよ神様が力を与えて下さろうとす働き以外にはなかったというふうに分かって悟っていのである。そして向こうに泳ぎ渡った向こうの世界に合楽世界があったとこういう。だから合楽世界に住むまでが、云うならば信心辛抱であり、度胸を作っていかなければならんのである。
私共の前には難儀とか困ったという危険とか恐いとかいうものは無いんだと、もしあるのはそこに神様の御都合であって、そこを貫いてみれば成る程“幽霊の正体見たり、枯れ尾花”的なものであったと、恐くも無いものを恐いと思うておる、危なくも無い所を危ないと感じておるだけであったと、そういう観念的なものが無くなっていくという事。そして泳ぎ渡っていわば向こうへ降りたら安心じゃと仰せられる。合楽理念に基づくその一つの性向と申しますかね。そこを渡り抜いた向こうに、云うならば合楽の世界がある。それには実を云うたら渡ってみて分かった事は本当に恐い事でも危ない事でも無かったと、自分を振り返って自分の信心の道すがらを思うてみると皆有り難い事ばかりであったということになるのです。けれどもそこに一心発起をね致しませんとね、それが大変危ないものであったり、危険なものであったり難しいものになってしまう。
シルクロードの道であるけれども、それを茨の道に、云うならばするもしないも云うなら一心発起である。この事だけは本気で貫くぞ、あれもこれもというわけにはいきません。けれどもなら天の心だけでもよい、地の心だけでもよい。いよいよ土の心に徹して、これだけは私のものになった。それなんです。だから本気でその事に取り組ませて頂くね。
徹する心を頂かなければならない。その云わば第一というのがです、折角合楽理念という素晴らしい洋服を着せて頂いたのだから、これに釣り合った、マッチする云うならばネクタイがはめられる。それが云うならば、徳とも力ともなる元になる。これだけは云わば実験実証して朝起きだけは、おかげで楽に有り難く目覚ましのおかげ頂けるようになったというようなおかげを頂かなきゃならん。これは私は毎朝の事なんですけれども、神様にまあ目覚ましのおかげを頂かせてもらうんです。何時も三時ちょっと前にベルが鳴るように致しますけれども、殆どが目が覚めた時には三時五分前位、今朝もまあ何という表現したらよいか分からんけれども、お夢を頂いてあまり有り難かったから、有り難い有り難いで眼が覚めた。というのはもうどこともないけれど、丁度あの福岡の東公園に日蓮上人様の銅像がありますね。あの位あんなに大きなお大師さんのお姿なんです。それが天からずうっと降りて来るんです。ここまではまあ私が登っていかなきゃならないというような、それにそのお大師様のお姿とその横にこれも又こんな石があろうとは思いませんでしたけれども、云わばあのう日蓮さんの銅像と同じ位の大きな御影石の素晴らしい一つのまあ石碑ですね。それに何と書いてあるかというと、南無大師遍照金剛かね、南無大師悲遍照金剛と書いてあるです。私はここん所に私に何か神様が下さろうとして居る、分からせて下さろうとしておるものを感じて目覚ましのおかげを頂いたんですけれどもね。そして有り難いなあと思わせて頂いとったら時間がきたからもう又天に帰って行きなさらにゃならん。昇天して行きなさらにゃならん。はあ、あんまり素晴らしい事だからそれを、じいっとこうさせて頂きよったら、そのもう雲の中にずうっとこう上って行かれる所を頂いた。そしてあのお大師様は何時もあの遍照金剛のあの杖をついておられて、そして草鞋ばきでしょう。そのそれがずうっと上にこの昇天して行かれる雲の中に体がもう膝の下あたりしか見えない位に雲の中に入っておられる所を最後に頂いたんです。そしてあらっと思うたのは、その草鞋ばきの所を非常にはっきり頂いたんです。
昨日の先生方の会でもその事にあの草鞋というのは和楽の道と書いてあるんです。箱崎教会に和楽路会というのがあります。月々信心の共励の会ですけれども、いわゆる和楽、ははあこの草鞋ばきである。草鞋ばきというのは、どういう事かというと一生懸命という事でしょう。
一生懸命の気になったら、そのシルクロードに茨の道と思うておった道も草鞋ばきではまったら、はまって登ったら楽しい道だという事。和楽の道だという事。というふうに下から眺めてそう感じておる所で目が覚めたんです。
これにはまだ深い合楽とのいろいろ拘わりの南無大師悲遍照金剛という所に御理解がありそうに思います。兎に角結局お互いがね、本気で草鞋ばき、下駄ばき位で合楽理念を行じようなんて言ったって出来るこつじゃないです。分かるこつは分かろうけれども、それこそ朝の御祈念にさえ出て来れないような結果になってくるんです。
ここの中に居っても、結局草鞋ばきの信心という事をその今朝のお夢の中から感じたんですけれども、一生懸命になるという事。本気になるという事。云うならば私の方の幹三郎が三時には必ず私の所へやった来ます。ですから彼が頂いておるあのみ教えの中に朝を命としてという意味の事が書いてある。
結局朝は私共金光様の御信心させて頂く者の命だと言う位なね、頂き方でそれに本気で取り組むという事です。そこから合楽理念がいよいよ成る程、朝早起きの出来るという事だけで合楽理念が生き生きとしてくる。いわゆる寝苦体である。それがきちっとはめられて、合楽理念がいよいよ生きてくるという事になるのですね。 どうぞ。